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片桐且元 3日目 ~毒饅頭~ [講談]

17日、師匠の命日に一門揃って、お墓参りに行ったこと。
講談まつりのこと。
カルト寄席に出演したこと。

片桐且元は方広寺大仏殿の普請奉行となる。

慶長16年に後水尾天皇が即位。
狸オヤジは駿府を出て、二条城へ入る。
秀頼公に対し、
「京へお越し下さい。帝に拝謁するよう。豊国神社へ参拝するよう」
伝える。
淀殿が烈火のごとくにお怒り。
秀頼が京へ行くのではなく、狸オヤジが大阪へ来い。
しかし、加藤清正。仁義の人ですから、
「京へ行って、帝に拝謁し、豊国神社にも参拝した方がよろしい。不忠者となります。身不肖なれども警護仕ります」

そこで秀頼公が京へ行くことに。
帝の御尊顔を拝し、豊国神社を参拝し、大仏殿の普請をご覧になると、
狸オヤジのいる二条城へ向かう。
警護の者は、加藤清正、池田三左衛門、浅野幸長、片桐且元、大野道犬斎、織田有楽斎、その他大勢。
皆、素足に草鞋履き。手には鉄扇を持って八方に目を配っている。

この知らせを聞いた狸オヤジ。
「清正程の者が恥も外聞もなく、素足に草鞋履きで秀頼公をお守りしているとは。これでは徳川の天下にはならん。はあ」
天を仰いで嘆息した。
この時に、本多平八郎、京都所司代の板倉八右衛門が、ゴニョゴニョと何か申し上げる。
狸オヤジはにっこり笑い、
「余はその方の忠義を生涯忘れぬぞ」

秀頼公、家康と対面。その後、酒宴となる。
酒宴が終わって、一休み。

加藤、池田、浅野、片桐の四名は、一間で休息をとる。
この時に、板倉八右衛門が、
「粗茶一服献上仕る」
お茶と一緒に帝から頂き物の饅頭を出す。
饅頭を二つに切り、
「お毒味仕る」
と半分を食した八右衛門が、
「さあ、清正氏」
こうなると、断るわけにはいかんので、清正が食べる。
これが名高い毒饅頭。
己の命を捨てて、毒味するという。
池田も浅野も食べた。
「さあ、片桐」
片桐食べん。
「年老いた母がおります。母に与えたいと思います」
サッと紙に包んで懐へ入れた。

やがて、秀頼公ともども大阪へ戻った。
八右衛門は四人分の毒を一人で食べたのですから、その晩に亡くなった。
内密に葬り、板倉伊賀守に跡を継がせる。

さあ、加藤、池田、浅野は具合が悪くなる。
「さては謀られたか」
と思いましたが、手遅れです。
その年、あるいは、翌年にこの三人は亡くなってしまう。

加藤清正は熊本へ戻り、亡くなる前に、
お小姓を呼び、
「秀頼公に仕え、忠義を尽くすよう」
13名の者が、秀頼に尽くすことなる。
木村又蔵の倅で、木村主計。
これがかの天正元年五月七日、秀頼公の名代として、燃え盛る大阪城で腹を切って果てました。

いよいよ鐘の銘文をめぐって、関東、大阪手切れとなるくだりは明日。
天皇が即位。
狸オヤジは駿府を出て、二条城へ入る。
秀頼公に対し、
「京へお越し下さい。帝に拝謁するよう。豊国神社へ参拝するよう」
伝える。
淀殿が烈火のごとくにお怒り。
秀頼が京へ行くのではなく、狸オヤジが大阪へ来い。
しかし、加藤清正。仁義の人ですから、
「京へ行って、帝に拝謁し、豊国神社にも参拝した方がよろしい。不忠者となります。身不肖なれども警護仕ります」

そこで秀頼公が京へ行くことに。
帝の御尊顔を拝し、豊国神社を参拝し、大仏殿の普請をご覧になると、
狸オヤジのいる二条城へ向かう。
警護の者は、加藤清正、池田三左衛門、浅野幸長、片桐且元、大野道犬斎、織田有楽斎、その他大勢。
皆、素足に草鞋履き。手には鉄扇を持って八方に目を配っている。

この知らせを聞いた狸オヤジ。
「清正程の者が恥も外聞もなく、素足に草鞋履きで秀頼公をお守りしているとは。これでは徳川の天下にはならん。はあ」
天を仰いで嘆息した。
この時に、本多平八郎、京都所司代の板倉八右衛門が、ゴニョゴニョと何か申し上げる。
狸オヤジはにっこり笑い、
「余はその方の忠義を生涯忘れぬぞ」

秀頼公、家康と対面。その後、酒宴となる。
酒宴が終わって、一休み。

加藤、池田、浅野、片桐の四名は、一間で休息をとる。
この時に、板倉八右衛門が、
「粗茶一服献上仕る」
お茶と一緒に帝から頂き物の饅頭を出す。
饅頭を二つに切り、
「お毒味仕る」
と半分を食した八右衛門が、
「さあ、清正氏」
こうなると、断るわけにはいかんので、清正が食べる。
これが名高い毒饅頭。
己の命を捨てて、毒味するという。
池田も浅野も食べた。
「さあ、片桐氏」
片桐は食べん。
「年老いた母がおります。母に与えたいと思います」
サッと紙に包んで懐へ入れた。

やがて、秀頼公ともども大阪へ戻った。
八右衛門は四人分の毒を一人で食べたのですから、その晩に亡くなった。
内密に葬り、板倉伊賀守に跡を継がせる。

さあ、加藤、池田、浅野は具合が悪くなる。
「さては謀られたか」
と思いましたが、手遅れです。
その年、あるいは、翌年にこの三人は亡くなってしまう。

加藤清正は熊本へ戻り、亡くなる前に、
お小姓を呼び、
「秀頼公に仕え、忠義を尽くすよう」
13名の者が、秀頼に尽くすことなる。
木村又蔵の倅で、木村主計。
これがかの天正元年五月七日、秀頼公の名代として、燃え盛る大阪城で腹を切って果てました。

いよいよ鐘の銘文をめぐって、関東、大阪手切れとなるくだりは明日。

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